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City Hotel Gypsy

the smoke stings Beadruct I album jacket
シティ・ホテル・ジプシー
2026.6.12 release

 私等は長年、美術教育や音楽、宗教・文化人類学的な視点から「文化」を観察してきましたが、そのなかで強く感じるのは、文化とは「自然なもの」ではなく、むしろ「不自然の構築」であるということです。人間は環境と共生する中で、さまざまな規範、制度、価値観を積み上げてきましたが、それらは本来的・普遍的なものというより、歴史的に特定の条件のもとで選択・固定された結果にすぎません。しかし一度「当たり前」として内面化されると、それが不自然な構築物であることは忘れられ、異なった生き方や価値を排除する差別の装置として機能し始めます。

 その典型例が「定住」です。近代社会において、住所登録や不動産登記、税制や社会保障などの制度は、すべて「一定の場所に定住する市民」を前提に組み立てられています。その結果、「住民票のある者」「住宅ローンを組む者」「固定の職場に通う者」が「普通」であり、「良き大人」であるかのような感覚が、暗黙のうちに共有されます。このとき、「定住」は生き方の一選択肢ではなく、「マジョリティであること」そのものと結びつき、非定住の人びと──移動民、ロマ、ホームレス、移民労働者、出稼ぎ労働者、さらにはデジタルノマドや漂泊するアーティスト──は、「例外」「問題」「矯正すべき対象」として位置づけられやすくなります。

 しかし歴史を振り返ると、非定住者は常に社会の「外部」であったわけではありません。中世の日本やヨーロッパでは、非定住の人びとはしばしば高度な技術や知識を携え、定住共同体の外側から機能していました。放浪芸人、旅する職人、建築技術者、精肉・皮革・医療に携わる人々。彼らは、村や都市が内部には持たない技能を補い、儀礼・戦争・建築・インフラ維持などの場面で不可欠な役割を果たしてきました。同時に、彼らは共同体内部の身分秩序から外れた存在でもあり、「役に立つときには歓迎され、平時には賤視・差別される可能性を持つ」という二重の位置づけに置かれていました。非定住を「危険・劣等」としてのみ捉える見方は、こうした歴史の多面性を削ぎ落とし、定住中心の価値観を唯一のものとする、きわめて偏った(そして差別的な)視線だと言えます。

 ロマ(いわゆる「ジプシー」)に対するイメージは、この非定住者への二重のまなざしが、近代以降、レイシズムと結びついて再構成された結果だと理解できます。ロマはヨーロッパ各地で、音楽や馬の扱い、金属加工などの技能を通じて需要を持ちながらも、「統治・課税・同化の外部」として警戒され、やがて「放浪・流浪=犯罪性」というステレオタイプの対象になっていきました。ここから、「Gypsy」は「自由でロマンチックな放浪者」というポジティブな表象と、「危険で盗みを働く」というネガティブな表象が絡み合う、きわめてアンビバレントな象徴となってしまっています。

 現代における「Gypsy」という語をめぐる論争は、この複雑な歴史を背景にしています。一方で、音楽ジャンル名「Gypsy jazz」や Bill Evans/Jim Hall "Undercurrent" の曲名「Dream Gypsy」のように、この語は長くロマンチックな美学の一部として用いられてきました。他方で、ロマ自身や人権団体は、「Gypsy」が差別と暴力の歴史を背負った蔑称であると指摘し、自称としての「Roma/Romani」への転換や、放浪者一般を指す場合には「wanderer」「nomad」など別の語を使うことを求めています。ここで問題になるのは、「非定住=問題」という見方を内在させたまま、「Gypsy」を自由・ロマンの象徴として消費することが、現実のロマ差別を見えなくし、その歴史を再び抹消してしまうという危険です。

 とはいえ、ここに単純な善悪の二分法を導入してしまうことも、別の形の暴力になりかねません。なぜなら、ロマ内部にも「Gypsy」を誇りとして再獲得しようとする動きがあり、歴史的な呼称やジャンル名を一概に禁じることが、当事者の表現やアイデンティティの再構築を縛ってしまう可能性があるからです。

 そして、同じ構造が、「パリ」という言葉にも存在することに、お気づきでしょうか?「パリ」と「ジプシー」という言葉には、同じ構造があるにも関わらず、非対称性が存在しているのです。「パリ」は西欧の文化的中心としてロマンティックに理想化され、日本では「パリ症候群」という形で、過度なロマン化と現実(例:不親切なパリ市民や薄汚れた通り)のギャップがむしろ日本人旅行者の精神的崩壊として語られます。それでも、「パリ」という語自体が蔑称とはみなされず、その名をブランド化し、ロマンチックに消費する自由は基本的に疑われません。これに対し、「Gypsy」は歴史的にマイノリティへの蔑称として用いられてきたため、同じようにロマンチックに消費することが批判の対象になります。ここだけを見ると、「マジョリティの象徴(パリ)は許され、マイノリティの象徴(Gypsy)は許されない」というダブルスタンダードのようにも見えますが、その背後には、支配と被支配という非対称な歴史が存在していることは言うまでもありません。

 こうした複雑な力学を踏まえると、複雑な要素の集積と構築によって生み出されたものが文化であり、それがグローバル化とインターネットによってさらに複雑な構造で接続され、矛盾や亀裂が露出しているのが「現代」だと考えられます。定住/非定住、所有/共有、マジョリティ/マイノリティ、ロマンチックな表象/暴力の歴史。これらはもはやそれぞれの地域の内部だけで完結せず、世界中の文脈とリアルタイムに結びつき、互いを問い直し合う関係に置かれています。そのなかで我々ができるのは、「当たり前」とされている不自然な構築物を一つ一つ見直し、その恣意性と暴力性を意識化しながら、異なった生のあり方である非定住や周縁に宿る創造性と媒介性をどう尊重しうるかを、アートや教育の場で試み続けることではないかと考えています。